今月の質問回答その2。
コンプレックスに翻弄された人生
誰にでもコンプレックスのひとつやふたつ、あることは承知している。
それと折り合いをつけながら、自分の良いところをのばして、自立した心で自分と向き合っている人が多いことも。
ただ、自分自身についていえば、コンプレックスに翻弄された人生だった気がする。
鼻の形が嫌、脚が太い、爪の形も変、……
「コンプレックス」の中には、今思えば、
- 「なんであんなに気にしていたのだろう???」
と、疑問に思うものもある。「認知の歪み」が起きていたことを実感する。
例えば、鼻の形が嫌だとか、脚が太い、爪の形が変、……、などなど、その時々によって、どこかしらの自分の部位を忌み嫌うということを、やっていた。
勝手にイメージをイメージして苦しむ
恥を忍んで白状すると、昔の私は、勝手に〈周囲からのイメージ〉をイメージして、そこから乖離してはいけないと苦しんでいた。
どういうことかというと。
例えば、「あの人は背が高そう」という〈周囲からのイメージ〉があると想定したら、「私は背が高くなくてはいけない」という感じ。
- 「周囲から●●と思われているはずだから、本当はそうではないことがバレないようにしないといけない」
という強迫観念。〈いつも何かを隠している気分〉を抱えていた。
- 「バレないうちに、解決しないといけない」
と、ひとりで焦っていた。
そのひとつは「痩せている」というもの。私は上半身の骨格から、痩せている人と思われることが多かった。
幼少期に痩せ型だった影響で、〈自分のアイデンティティー=細い=細くないと私でない〉と刷り込まれていた面もある。
- 「細いですね」って言われたのに、実は脚が極太とかバレたら絶対に嫌すぎる
と思っていた節がある。
勝手にイメージをイメージして苦しんでいた。自意識過剰も良いところだった。
根本は自己肯定感のなさが原因
思春期以降の私が、そんな自意識過剰なコンプレックスに翻弄された根本的な原因は、
- 自己肯定感のなさ
にある。
自分で自分を肯定できないので、いつも外を見ていた。外からの評価が、私の生命線だった。
人から低評価されるコンプレックスを、
- 「まあ、いっか」
と置いておくことはできなかった。バカみたいに必死な自分がいた。
そんな自分ができあがった背景には、育った家庭環境や、もともとの気質が影響しているのだろう。
自己肯定感とコンプレックスは反比例する
大人になる過程でうまく育たなかった自己肯定感。
大人になってから、自力で育てるために、いろいろな本を読んだ。
そのいくつかは、このブログ内でも紹介している。
自分の中と向き合う作業を、黙々とやってきた。結果、徐々にコンプレックスに翻弄されない自分が顔を出すようになってきた。
自己肯定感を育てるのと反比例して、コンプレックスを感じる量は、減っていった。
全部を手に入れるのは無理
ある程度の自己肯定感を携えた上で、自分のコンプレックスを眺めたとき、強烈に思ったのは、
- 全部を手に入れるのは無理
……ということだ。
私は、コンプレックスに悩み苦しむ弱い人の顔して、ものすごく、傲慢だった。
- あれも欲しい
- これも欲しい
と、欲望丸出しで自分を否定していた。
本当は、客観的に冷静に見つめたら、わかるはずなのだ。
あれもこれも持っていなくても、代わりに持っているモノはちゃんとあるということに。
持っているモノはちゃんとあるくせに、さらに欲しい・もっと欲しいと勝手に苦しんで、持っているものを大事にすることから逃げていた。
こんな自分だったら、何を与えられても、「コレジャナイ・コレジャナイ」と放り投げていただろう。
諦める、諦める、諦める
10代・20代は、自分を他人と比較してばかりだった気がする。
実際、集団生活や男女関係の中で比較されるシーンも多かったので、ある程度は仕方ないのかもしれない。
30代になってからは、周囲も自分も比較の波を下りて、自分らしく生き始める人が増えた。
それは、「年を取った」ということなのか、「時代の流れがそうなっている」ということなのか、「たまたま私の周囲がそう」ということなのかは、わからない。
ただ最近、私がよく思うことは、
- 諦める、諦める、諦める
……ということだ。
欲しい欲しい欲しいの傲慢さを、手放していこうと思った。
だいたい、欲しい欲しい欲しいの傲慢さで力ずくで手に入れても、すぐ飽きてしまうのだ。
表面的な欲求を叶えて得られる快感は、とても刹那的ではかないもの。また次が欲しくなる。
それよりも、私の真のコアの部分で欲するものを、もっと大事に扱っていきたいと思った。
表面的にフラフラと現れる欲求は、どんどん諦めていっていいと思った。
もらったものに感謝する
最後に。
よく言われることだけれど、改めて。やっぱり「もらったものに感謝する」、この効果は絶大だ。
繰り返しになるが、
- あれもこれも持っていなくても、代わりに持っているモノはちゃんとある
のだ。
「コンプレックスと自己否定感」にまみれているとき、持っているモノを数える気になんて、とてもなれなかった。
でも、少しだけ前に進み出したときに、持っているモノを数えるチャレンジを始めた。
持っているモノにフォーカスすればするほど、私がいかに今まで受け取っていなかったのかに気付いて、恥ずかしい気持ちになった。
外からの評価を強烈に求めていた若かりし日のことを書いたけれど、そもそも、外からの評価はいただいていたのだ。
いくら褒められても、「ソレジャナイ」とそっぽを向いていた自分の傲慢さを知ったとき、悶絶した。
以前、「身体は、あと70年乗る乗り物だから大事にしないといけない」の記事で書いたが、体はあと何十年も乗る大切な乗り物だ。
今までの数十年はコンプレックスで体に悪口言いながら生きてきたかもしれないけれど、まだ、間に合う。これから、うーんと大事にしてあげればいいのだ。