今年も311がやってきて、東日本大震災から8年がたった。
東日本大震災 私の立ち位置
この話を書く前に、私の立ち位置について触れておく。私自身は被災していないが家族が被災地にいた。
だから、被災者と非被災者の中間のような気持ちでいる。
当時はお見舞いを言われることもあったし、お見舞いを言うこともあった立ち位置だった。
8年越しでラジオを聞いた
私は10代の頃からラジオリスナーで、今でもよくラジオを聞いている。
東日本大震災から8年たった今年の3月11日は、なぜか当時のラジオを聞き直していた。
震災発生時に生放送中だった小島慶子や上柳昌彦の素晴らしい対応力や、話題になったバナナマンからサンドウィッチマンの裏番組紹介など。
その中で、改めてハッとしたのが伊集院光のJUNK深夜の馬鹿力。
※書き起こしが下記のサイトにあった。
伊集院光が、オープニングトークの出だしで、
「東北の本当に一番きつい所で一番きつい思いをしている人たちに聞こえているラジオで、こう言うのもなんだけど、こう言うのが本当は許されないのかもしれないけど」
と前置きした上で、
- 「東京は東京でショックだったんだよね」
と言う。
そう。これは確かに本当にそうだと思う。東京でなくても、自分がいた地域に当てはめればいい。
あの震災の中で、それぞれが非日常的な恐怖を味わった。怖かった。
そしてその恐怖を、「もっとつらい思いをしている人がいるのだから」と我慢して押し込めた。
自分が受けたショックはなかったことにして(またはもっと大変な人と比較すれば相対的に小さなものであると抑えつけて)、支援する側に回った。
ショックだったこと・つらかったこと・怖かったことを認めても良いのではないか
相対的にもっとつらい人がいるのだから、自分の感じた恐怖は我慢しなければならなかった。
被災地と比較したら十分に恵まれている環境でつらいと言ったら、罰が当たると思った。
弱音を吐くことは許されなかった。
ただ、「相対的に見たり」「被災地と比較したり」せずに、純粋に単体で見たなら、相当の恐怖とショックが、そこにあったのも事実だった。
そのことに、8年越しに聞いた「東京は東京でショックだったんだよね」という言葉で気づいて(認めさせてもらって)、涙があふれてきた。
私たちは私たちで、きつかったのだ。我慢してたけど。
このフレーズを、震災直後のタイミングでラジオという公共の場で発信した伊集院光は、すごい。
私は8年たって個人的なブログに書き留めるだけでも、とにかくデリケートな問題だから真意が伝わるのだろうか、誰かを傷つけはしないだろうかと悩んでいるし、被災地に家族がいたという当事者的立ち位置がなかったら、書いていないと思う。
誰かをケアしている人のケアも大事
そんな葛藤を抱えながらもこの記事を書いているのは、私が今までに「自分よりも大変な思いをしている身内をケアする中で自分が潰れる」という経験を通して、
- 誰かをケアしている人のケアも大事
という強い思いを抱えているからだ。
精神病の家族・がんを患った家族の看病・介護を過去に経験している。
私自身もつらかったのに、
- 「一番つらいのは私じゃない」
- 「だから私はがんばらなくちゃ」
と、自分の気持ちを押し殺して頑張りを続けた結果、私は病気になった。
自分のつらさを相対的に誰かと比較すると、こういうことが起きる。
自分のつらさを、相対的に誰かと比較する必要はない。つらかったならつらかった、それで良かったのだ。
自分のつらさを認めて癒して元気でいること
自分のつらさを認めて癒して元気でいることが、結局のところ、誰かの応援にもつながるのだと思う。
震災のショックを過小評価した結果、癒す機会なく抱え、無意識のままイライラしながら不安に襲われながら、被災地に向かって「がんばれ・がんばれ」と言っているとしたら。
まず、やるべきことは自分の世話だ。
改めて、ショックを引きずりながら生きていないか、自分のケアは十分にできているのか。自分自身を振り返りたいと思った。
それは震災に限らず、今まで、誰かのために自分のつらさを犠牲にしてきたすべての経験に対して。
- 「じゃあ、本当に大変な人を目の前にして、自分もつらいなんて言えるのか。それは甘いのではないか」
これに対しては、言えるわけない。自分より大変な人の前でそんなこと。
だから、自分より大変な人の前ではがんばるんだけど、がんばったそれをちょっと離れた場所で、ちゃんと認めてケアしてあげることが、全体の良い循環のためにも必要な要素なのでは、と思うのだ。