摂食障害になっていなかったら、いま私は生きていないと思う

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摂食障害から抜け出して、しばらく経った今、思うこと。

摂食障害に助けられていたことを思い知る

以前、下記の記事を書いた。

2年前に書いた記事だが、改めて最近も思い知っている。

摂食障害によって私がどれだけ救われていたか。

摂食障害の頃、摂食障害以外の苦痛をどうやって乗り越えたのか覚えていない

摂食障害にどっぷりとはまっていた頃の記憶は、体重と食べ物のことで埋め尽くされている。

  • 「10代・20代の貴重な時間を、体重と食べ物のことで費やしてしまった」

と、なんともいえない絶望的な気持ちに陥ったこともあった。

一方で、摂食障害以外に抱えていた苦痛をどう乗り越えたのか覚えていないことに気づく。

いくつかの苦しくて耐え難い試練に直面していたはずだが、苦しい気持ちを当時どうしていたのかわからないのだ。

葬儀の記憶

例えば、当時ある葬儀に参列している。

記憶として残っているのは、ガラスに映る喪服から出る脚を他の参列者と比較しては、自分の方が細いとか太いとか判定していたこと。

自分と同じくらいの人を見つけると、その人の脚を今度は後ろから見て「私はあの程度なのか」と確認したり。

「葬儀の場で何たることか」と非難の的になりそうだ。私自身、自分の異常さ・卑しさに自己嫌悪しかなかった。

「故人と関係性が薄かったのか?」というと全然そうではない。その逆で、関係性の近いとても大切な人の葬儀だった。

いま振り返ると、あの頃の私には、その悲しみを真正面から引き受けられるだけの用意がなかった。

だから体が「摂食障害」という逃げ場を準備したのだ。

摂食障害は、私を現実から逃がす役割を担っていた

意識を脚の太さや体形へ向けさせ、悲しみと直面するのを避けて、何とか生きるバランスを保っていた。

摂食障害による現実逃避

「現実逃避」という言葉には、どこかネガティブな雰囲気がある。

しかし逃避しないと耐えられない現実を前にしたら、上手に逃げることは生きのびる最上の智恵だ。

摂食障害でいる間、摂食障害がその役割を担い、私を逃がしてくれた。

あの頃より柔らかくしなやかになった精神で、過去に置き忘れた悲しみと向き合いながら、当時の自分には、これは耐えられなかっただろうと思う。

摂食障害は私の精神を安全地帯へ避難させ、現実世界で生きていけるよう成長させてから、もとの場所に戻した。

私がいま生きているのは、摂食障害に助けてもらったからだ。

摂食障害を抜け出してから本当の苦痛と向き合う

摂食障害の苦しさのまっただ中にいるときは、“目の前の摂食障害の苦しさ”を何よりも強く感じていた。

摂食障害以外に由来する苦しさよりも、摂食障害の方が優先されていた。

足が痛いとき、もっと強い痛みが頭に出現すると、頭の痛さに意識が向けられて足の痛さが気にならなくなるように。

摂食障害を抜け出した後

摂食障害がすべての元凶だと思い込んでいた当時は、

  • 「この苦しささえ抜け出すことができればラクになれる(だから早く抜け出したい)」

と願っていたものだ。

ただ、実際は少し違っていた。

摂食障害の苦しさを抜け出したら、摂食障害の苦しさでカムフラージュされていた他の苦悩が頭をもたげるようになった。

摂食障害を卒業したら、悩みの中身が摂食障害から他の悩みにすり替わった。

すり替わっただけで、体感の苦しさレベルは大して変わらない(むしろ、もっと苦しくなったかもしれない)。

「すり替わった悩みの中身」の多くは、摂食障害を抜け出してから始まったものではない。

ほとんどが摂食障害中から抱えていた悩みだった。

摂食障害という重しで蓋をして、表に出てこないよう抑えていたのだ。

「今が最善」の意味

振り返ると、摂食障害中の状態さえ、その時点での最善だったのだろう。

ポジティブシンキングな文脈で「今が最善」と言われても、苦しみのまっただ中にいるときには受け入れられない。

まして、摂食障害の大波に飲み込まれている真っ最中に言われても、意味がわからない。

でも、たぶん、

  • 大難が小難になった

という意味では、どんな状態であれ「今が最善」なのだと思う。

  • 「今の状態はとても苦しくてつらくて耐えられない、それは十分によくよくわかります、わかりますが、実はこうしないともっと最悪な状態になっていたんです、それに比べれば“まだマシ”なんです。すごくつらいですけど……」

という意味で「今が最善」と信じたいというか。

私は、「体も心も非常に緻密にできていて、持ち主の生命の生存のためになることしかしない」という考えでいるので、そんな風に思う。

摂食障害は早く治せばいいってもんでもない

家族や大事な人が摂食障害になると、とにかく一刻も早く治そうとしてしまう。

ただ、摂食障害の裏側の仕組みに思いを馳せると、「ただ治せばいいってもんではない」と思う。

心身に必要があって起きている防衛機能だとしたら、無理やり治すことで心身が壊れてしまうリスクだってある。

摂食障害は、行き過ぎて命を落とす事態は防がなければならないから、バランスは難しい。

が、ゆっくりゆっくり向き合っていけたら、それが一番いい。

結局、私はそうすることでしか摂食障害から抜け出すこともできなかった。

「一生付き合っていけばいいや」くらいの軽いスタンスで、治したい気持ちへのこだわりが抜けて、いつの間にか、摂食障害ではない感じになっていたから。

ある意味、「自然な流れで治っていくことに身を任せた」からこそ、摂食障害が守ろうとした私の精神の修復時間も取れたのかなと思ったりする。

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