うーん、なぜなんだろう。自分を粗末に扱っているほうが安心する。
なんでもないことで自分を大切にできない
さっき、おいしいサラダを食べたいな、と思った。
冷蔵庫には野菜があるので、それを自分のためにカットしたら、おいしいサラダは食べられる。
でも、それをしたらいけない気がして、コンビニで適当なサラダを買って食べたほうが良い気がする。
そのほうが、安心なのだ。
これって、客観的に見ると、すごく変だよね、と思った。ふと。
あまりにも私になじみ深い思考回路すぎて、いつもはそのままスルーされている。
このブログでも、過去に「自分の洗濯物をわざわざ畳むことへの罪悪感」を書いたことがあるかもしれない。
洗濯物が畳むのが面倒とか、野菜をカットするのが面倒とか、そういう話ではないのだ。
同じことを、人のためにやるのはまったく苦にならないのに、自分のためにやることに抵抗がある。
でも、「自分のことを大切にできない不器用な私」みたいなのとも、ちょっと違う気がする。
自分のことを粗末に扱っている方が、安心なのだ。居心地がいい。なんなんだろう?
自分を大切にするのは勇気がいる
答えは自分のなかには何となくあるものの、まだキレイに言語化できない。
ただ思うのは、
- 自分を大切にするのは勇気がいることだ
…ということ。
だから、自分を大切にできていない自分のことも、自分を大切にできていない他の人のことも、ぜんぜん、「もっと自分を大切にしないとダメだよー!」とか、思わない。
自分を大切にするって、それだけで結構たいへんなのだ。
自分を大切にしない(粗末に扱う)のも、そこには、選択がある。
つまり、自分を大切に扱えない“かわいそうな人間”だから否応なくそうなっているのではなくて、そっちのほうが楽なのだ。
ある種の生き方に慣れてしまった者にとっては。
生まれながらに自分を大切にできる人ってすごい
そんなことを考えていたら、生まれながらに自分を大切にして生きている人って、すごいと思った。
すべてはバランス、てこの原理、振り子、中庸、陰と陽、プラスとマイナス、正負の法則、いろいろな言い方があるけれど、良いも悪いもないのだと思う。
自分のために新鮮な野菜をカットするだけで勇気が必要な私は、いま、冷蔵庫をチラチラ見ながらこれを書いている。勇気を出して、自分のためにサラダを作るか。