「いやな記憶」「思い出したくない記憶」と、どう付き合っていくかは、長年のテーマだった。
私の人生の大半は、「今」にない問題との戦いにあった。
つまり、過去への嫌悪感と未来への心配事を、頭のなかで何度も何度も何度も、リピートして考えている時間が多く、本当に「今」を感じて生きていた時間など、ほんの一握りだ。
過去に書いた記憶の記事
本題に行く前に。この記事の前編ともいえる関連記事はこちら。
特に、後者の4月に書いた「今に集中して上がってきた記憶を消去する」方法は、とても良くて、嫌な記憶がかなり薄まっていった。
この“上がってきた記憶を消去する方法”に取り組むなかで、新たに発見したのが、今から書く内容となる。
処理すべきは「登場人物」ではなく「自分の気持ち」の方だった
私が気づいて、「へえええええ〜!そうだったのかぁぁぁ」と驚いたのは、嫌な記憶で処理すべきは「登場人物」ではなく「自分の気持ち」の方だった、ということ。
例えば、何度も何度も、何らかのトリガー(きっかけ)によって思い出しては気が滅入る「ある男性」がいたとする。
私は、ある男性のことを、忘れたくてたまらない。また思い出してしまった。忘れたいのに。
私の心から出ていってほしいのに、何度も何度も思い出しては、現在の私の生活まで侵食してくる。
ある男性への嫌悪感と、こんなにも時間が経ったのになお苦しめられている状況に対する絶望感で、二重に嫌な気持ちに浸される。
このとき、私はある間違いをおかしていた。私がやろうとしていたのは、
- ある男性を、なんとかして忘れようとする努力
だった。
これが、違っていたのだ。
処理すべきは、「登場人物」ではなく「自分の気持ち」の方だった。
何度も思い出すのは未消化の「気持ち」があるから
登場人物(先ほどの例では「ある男性」)を、いくら忘れようとしても、その記憶が何度も何度も消えずに上がってくるのは当然だった。
私が処理したいのは、登場人物のことではなくて、その登場人物との間に起きた何らかの出来事を通して発生した、「私の気持ち」の方だからだ。
- いつまでも、嫌なあの人の記憶に縛られているなんて、私は人生を損している
- いつまでもあんな嫌な人のことを思い出していたくない
- 早く私の記憶からあの人が出てこなくなればいい
…と思っていたが、まったくお門違いだった。
ここを細かく見ると、同時に、
- 「あの人のことを、どうでもいいと思えない、コントロールされてしまっている自分」に対するみじめさ
も存在している。
(自分で自分の人生を操縦できていない苦しさだ)
しかし。そもそもコントロールなんてされていないし、あの人の記憶に縛られていると思い込んでいること自体が勘違いだった。
記憶が上がってきては「消化(昇華)してくれぃ〜!」と私に訴えてきたのは、どーでもいいあの人のことではなくて、まさに私自身があのとき心で感じ、そして感じ切らずになかったことにして置き去りにしてしまった「私の気持ち」だったのだ。
(急に戻ってきた自分で操縦している感じ)
感情は感じきると消える
「感情は感じきると消える」という大前提がある。
何度も何度も思い出してしまう記憶は、出てくる登場人物や出来事ではなくて、それに紐付いている感情を消してしまえば、もう思い出さなくなるのだ。
気持ちに焦点を合わせる2つのメリット
この「嫌な記憶が出てきたら、登場人物ではなく“自分の気持ち”に焦点を合わせる」という方法。
2つのメリットがあった。
メリット❶記憶が出てきても嫌な気持ちになりにくい
1つめのメリットは、記憶が出てきても嫌な気持ちになりにくいこと。
フォーカスするのは、嫌な記憶の嫌な人物や嫌な出来事ではなく、「私の気持ち」だ。
今までは、嫌な記憶が出てくるたびに、嫌な人物や嫌な出来事にまみれている(汚されている、汚染されている)感覚があった。
それが、なくなる。
それどころか、自分のコントロール下のもとで、自分の記憶を処理できている感覚が、心地よい。
そして、「自分を大事にしてあげている感じ」まで得られる。
「自分を大切にしよう」なんて言っても具体的に何をしたらわからなくなってしまうけれど、
- 自分の気持ちに目を向けてあげる
- 置き去りにしてきた過去の感情をなかったことにしない
…この2つだけで、私たちのなかの「わたし」は涙を流すほど喜ぶ。
それだけ、自分を大事にする方法を知らなかったというか、その発想自体ないままに生きてきた種類の人間にとっては。
メリット❷記憶に対する評価が一瞬にしてフラットになる
2つめのメリットは、記憶に対する評価が一瞬にしてフラットになること。
「瞬時に記憶がなくなって、記憶にポッカリ穴が空いたようです!」みたいな記憶喪失的なことは起きないけれど、少なくとも、その記憶に対する「イヤだイヤだイヤだ」という負の感情はポッカリなくなって、その記憶に対する評価が、良くもなく悪くもない、フラットな状態になる。
つまり、その記憶が、どーでもよくなる。
どーでもよい記憶だから、やがて思い出さなくなる。記憶からなくなる。