「●●は良くない」という情報が、あふれている。
そんな情報との付き合い方。
「●●は良くない」情報とは
「●●は良くない」情報とは、例えば動物性の食べ物は良くないとか、白い精製された食べ物はダメ、小麦は良くない、生の食べ物はダメ、加熱した食べ物はダメ、化学調味料は良くない、フッ素は良くない、etc. という情報のこと。
意図しなくても、日々何らかの「●●は良くない」情報を目にすることは多い。
目にするたびに、「●●は良くないんだって!」とやめていく人もいる。けれど、ダメなことだらけで生きづらくなってしまうし、何より、「●●は良くない情報」は刻一刻と変わる。
新しい情報が出てきて上書きされることもある。その情報を発信した人が違う考えに変化することもままある。
つまり、誰かの発した「●●は良くない」情報との付き合い方には、ちょっとコツが必要だなと思うのだ。
良くなくないものはない
前提として、「良くなくないものはない」。
変な日本語になってしまったが、言い換えると、ありとあらゆるものに対して「●●は良くない」の主張が存在するということ。
初めてその情報に接したタイミングでは、「ええっ!そうなんだ!やめなくちゃ!」とビックリしてしまうかもしれない。
しかし、『そもそも世の中すべてのモノが良くないものだ』と構えていれば、驚かない。
(より正確に表現するなら『世の中すべてのモノに対して良くないと考える人はいるものだ』)
いろいろな食事療法に取り組んだ経験
そんな考えに私がたどり着いた背景には、20代の頃に、さまざまな食事療法にストイックに取り組んだ経験がある。
知識がない頃は、「ナチュラルでオーガニックで植物性で体に良い」VS「動物性で化学調味料を使っていて体に悪い」くらいの、ざくっとした分類で考えていた。
でも、前者(ナチュラルでオーガニックで…)のなかにも、実にさまざまな主張がある。
例えば、マクロビオティックの世界では、生の果物や野菜は体を冷やすとされている。
一方、ナチュラルハイジーンの世界では、加熱調理した食べ物は死んだ食べ物だから生で食べた方が良いとされている。
これ、どっちも本当なのだと思う。生の果物や野菜は体を冷やす面があるし、加熱料理では壊れる栄養素があるのだろう。
自分にとって良いか悪いか実験して確かめてみる気持ち
「●●は良くない」情報に触れると、多かれ少なかれ、不安になりやすい。
- 「●●はやめなくちゃいけないの?」
- 「●●をやめられないけど悪いことが起きたらどうしよう」
…などなど。
でも、不安になる前に、
- 「●●が良くないのは(私にとって)本当かな?」
という気持ちで、実験してみる。
●●をやめた状態とやめていない状態を比較して、自分にとって良くないという実験結果が出たらやめる。
そうでなければ、気にしない(「私にとっては●●は別に悪くないらしい」と結論して終わり)。
それでも不安になるなら、「●●は良い」方面の情報を検索する。「●●は良い」という主張がわんさか見つかる。
「陰謀だ!」とか極端なことを言い出さない限り、すべての●●には、すでに先人たちの叡智の詰まった研究や考察があり、さまざまな人がさまざまな立場で結論を出していることがわかる。
それらを参考にしながら、「じゃあ、私はどうする?」と考える。
その方が、自分以外の何かに振り回されている感覚がないので心地が良いし、結局、そうしないと意味ない。
というのは、「●●は良くない」と聞いて不安を感じたとき、本当に私たちが求めているのは、体だったり心だったりを、健やかで穏やかで気持ちが良い状態でずっと生きていけるようにすることのはず。
そうなるための正解の選択肢は、自分で実験してみないことにはわからない。人の体質によって、まったく異なるからだ。
例外:目的を持って何らかの療法に取り組む場合
以上が、私が「●●は良くない」情報に接したときの付き合い方。
例外として、目的を持って何らかの療法に取り組む場合は、いったんすべてうのみにして、徹底的に一定期間、本気で取り組むのも大事だと考えている。
(例えば、20代の頃にいろいろな食事療法に取り組んだときは、そうしていた。良いとこ取りのつまみ食いはしなかった。やるときは徹底してやる)
西洋医学に基づく治療にせよ、それ以外の民間療法的なものにせよ、一刻も早く対処しなければならない、強い問題が目の前にあるときの自分流は、邪魔になることがある。
下手に自己流にアレンジして中途半端に行って「効果なかった」となるくらいなら、最初からやらないほうがマシとなりかねない。
そういうケースを除いて、日々の生活のなかで、「自分に取り入れる/取り入れない」の選択をするうえでは、自分の体での実験ベースで決めている。それが、気持ちが良い。