【摂食障害 振り返り①】摂食障害だった(の?)自分を振り返って思うことを書いてみたいと思う

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今日から、摂食障害だった自分のことを振り返って思うことを書いてみたいと思う。

摂食障害だった、と過去形にしてしまって良いのか、わからないけど。

今でも、摂食障害に付随する「依存」は時折もたげてきて、私を悩ませる。

でも、過去の“ひどかった時期”の隣に“現在”を並べて比較してみれば、全然違う。

このブログでも、何度も摂食障害のことは書いてきたけれど、書いて数年経つと、また違った視点が見えてきたりしている。

過去に書いたものは、“そのフェーズの私”が感じていたそのときの真実としておいたまま、改めて現在から見えていることを書きたいと思った。

おそらく、何回かに分けて書くことになるかと思う。

自叙伝みたいな超・個人的なつぶやきになって、誰かが読んで良いものになるかは、分からない(たぶんまったくならない)。

ただ、忘れてしまう前に書き留めておきたいという気持ちが強くなった。見たくなかった部分を見る勇気が少しわいている。備忘録をかねて書いてみる。

何を書くか決まっていない状態でつらつらと流れのままに書き進めていく。「で、何が言いたいの??」という文章になるだろう。そういう駄文の前提で。

いま振り返って思う2つのこと

いま振り返って思うことは大きく分けて2つあって、

  1. 摂食障害の自分が大好きだった
  2. 摂食障害の自分が大嫌いだった

…の2つ。

❶摂食障害の自分が大好きだった

私は、摂食障害の自分が大好きだった。

当時は、苦しみの方を大きく感じていたため、そのこと(実は好きな気持ちもあったこと)に対して無意識的だった。いま振り返って初めて、どれだけ好きだったのだろう、と気づく。

「摂食障害」は、自分の居場所だった。摂食障害というカテゴリー、レッテルは、自分に意味を与えてくれた。

摂食障害であることが、自分のアイデンティティーのひとつだった。

昔から、人が嫌いだった。端から見たら、それなりのコミュニケーション能力を(無理して)発揮して、“普通でいられるように”がんばっていた。

人が嫌いで苦手なくせに、「人が嫌いで苦手な人」と人から思われるのは嫌だった。プライドが高かったのだと思う。

人より動物たちの方がずっとずっと好きだった。人よりも動物の方が、自分のカテゴリーのような気がしていた。

そんなバックグラウンドを持つ私が、「摂食障害患者」というカテゴリーには、自分らしさを感じていた。

同じく、摂食障害を抱えている人たちには、妙に親近感を持った。人間たちのことは、自分とは別のものと感じているのに、摂食障害を抱えている人たちは自分と同じカテゴリーだと感じた。

簡単な言葉を使えば「仲間意識」となるのだけれど、自分が感じているニュアンスとは微妙に違う。

人間たちのことは信頼できないけれど、摂食障害の人たちは大丈夫な感じがした。

かといって、実在する摂食障害の人に会ってお話するとか、そういうことはない。ただ、有名人でも、ネットで見掛ける人でも、本の著者でも、「摂食障害の過去」を持つ人だと安心できた。

筋金入りの摂食障害患者であればあるほど、受け入れられた。

この感覚は今でもあり、摂食障害の人を見ると、心底、応援したいと思うし、何か自分にできることがあればしたいと思う。

人間嫌いの自分が、摂食障害の人には、愛をもてる。やさしくなれる。

(ただ、自助グループなどに参加して、立体的に人間の形をした同じ病気の人たちに会いたい気持ちには、ならなかった。それでは人間になってしまう)

❷摂食障害の自分が大嫌いだった

摂食障害の自分が大嫌いでもあった。

そのカテゴリーに自分がいることが、「外」でバレるのは絶対に避けなければならなかった。

最近、メンタルを病んで悩んでいる人(10年以上の友人)の話を聞いている過程で、私も摂食障害だった過去があるとカミングアウトしてしまった。

たぶん、私も同じ土俵で話を聞ける用意がありますよと相手に安心してほしくて口がすべったんだと思うが、激しく後悔した。

言ったところで何も起きずに、相手の見る目も変わるわけなく(相手は自分が苦しんでいるのでそれどころではない)、何も害は起きていないのに、非常に後悔した。

そろそろ「外」にカミングアウトしても大丈夫な気がしたから口がすべったのだろうが、今でも全然ダメだった。これは私の秘密。

ちょっと話が脱線したが、とにかく、摂食障害の自分は、隠すべき汚点でもあった。

(先に書いた通り「大切なアイデンティティーであるにもかかわらず」とセットであることが重要。単に嫌いなだけではない、もっと複雑な気持ちがある)

「メンヘラ扱い」されたり、「根性のない人」というレッテルを貼られることは、絶対に避けなければならなかった。

私はタフでいたかった。

どんな逆境であっても、家庭環境が劣悪であっても、激務であっても、「●●さんは本当にタフだよね」と言われる私でいたかった。

「そんなふうに育ったとは思えないくらい、天真爛漫だね」と言われたかった。

救われる側よりも、救う側にいたかった。助けられるのは嫌で、助けたかった。支えてもらうよりも、支えたかった。

それは慈愛とか、謙虚さとか、自己犠牲とか、献身の精神とは異なる。人より下の立場になるのが、嫌だった。

私が摂食障害を15年以上もっていたことを知る人は、医療関係者以外にいない。

(続く)

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