この記事では、15年以上にわたって摂食障害を抱えた私が、少し距離をおけるようになった「現在」の視点から、あの渦中で何が起きていたのかを振り返ってみようと思う。
自分の摂食障害の正体は何だったのか。なぜ手放せなかったのか。どうやって抜け出していったのか。
自叙伝のような個人的な話で、誰かの役に立つかは分からない。ただ、見たくなかった部分を見る勇気が少しわいた今のうちに、書き留めておきたい。
摂食障害の渦中にいる人、過去に苦しんだ人、身近に摂食障害の人がいる人——誰かの何かの足がかりになれば、と思う。
摂食障害という“居場所”。大好きで、大嫌いだった自分
振り返ってまず気づいたのは、摂食障害である自分に対して「大好き」と「大嫌い」の両方の感情を同時に抱えていた、という矛盾。
当時は苦しみのほうばかりが大きく見えていて、「好きだった」なんて自覚はなかった。いま距離をおいて初めて、そのことに気づく。
摂食障害の自分が“大好き”だった理由
「摂食障害」は、私の居場所だった。
大げさではなく、摂食障害というカテゴリーが、自分に意味を与えてくれていた。摂食障害であることが、アイデンティティーのひとつだったのだ。
昔から、人が嫌いだった。端から見れば、それなりのコミュニケーション能力を(無理して)発揮して、“普通でいられるように”がんばっていたと思う。人が嫌いで苦手なくせに、「人が嫌いで苦手な人」と思われるのは嫌だった。プライドが高かったのだろう。
人より動物たちのほうがずっと好きだった。人よりも動物のほうが、自分と同じカテゴリーのような気がしていた。
そんな私が、「摂食障害患者」というカテゴリーには自分らしさを感じていた。摂食障害を抱えている人たちには、妙な親近感を覚えた。簡単にいえば「仲間意識」だが、自分が感じていたニュアンスとは微妙に違う。
人間たちは信頼できないけれど、摂食障害の人たちは大丈夫な感じがした。
かといって、実際に摂食障害の人に会って話すとか、そういうことではない。ただ、有名人でも、ネットで見掛ける人でも、本の著者でも、「摂食障害の過去」を持つ人だと安心できた。筋金入りであればあるほど、受け入れられた。
この感覚は今でもあり、摂食障害の人を見ると心底応援したいと思う。人間嫌いの自分が、摂食障害の人にはやさしくなれる。
(ただ、自助グループなどに参加して、立体的に人間の形をした同じ病気の人たちに会いたい気持ちには、ならなかった。それでは人間になってしまう)
摂食障害の自分が“大嫌い”だった理由
いっぽうで、摂食障害の自分が大嫌いでもあった。
そのカテゴリーに自分がいると「外」にバレるのは、絶対に避けなければならなかった。
「メンヘラ扱い」されたり、「根性のない人」というレッテルを貼られたりするのは、絶対に避けたかった。
私はタフでいたかった。どんな逆境であっても、家庭環境が劣悪であっても、激務であっても、「○○さんは本当にタフだよね」と言われる自分でいたかった。「そんなふうに育ったとは思えないくらい、天真爛漫だね」と言われたかった。
救われる側よりも、救う側にいたかった。助けられるのは嫌で、助けたかった。支えてもらうよりも、支えたかった。
それは慈愛とか、謙虚さとか、自己犠牲とか、献身の精神とは異なる。人より下の立場になるのが、嫌だったのだ。
私が摂食障害を15年以上抱えていたことを知る人は、医療関係者以外にいない。
大切なアイデンティティーでありながら、同時に隠すべき汚点でもある。この矛盾を抱えたまま生きていた。
摂食障害を“依存症”として見つめ直す
摂食障害の正体を理解するうえで、私にとって最大の転換点は、「摂食障害は依存症の一種である」と気づいたときだった。
きっかけは、雑誌で見掛けたアルコール依存症のチェックリスト。読んでいて、「これ、アルコールを“食べ物”に置き換えたら、まんま摂食障害じゃん」と気づいた。
アルコール依存症・薬物依存症・ギャンブル依存症・ニコチン依存症・買い物依存症・恋愛依存症……依存症にはさまざまな種類がある。摂食障害はその行為があまりにも特殊に感じられて、自分のなかでは「ものすごく特別なモノ」だった。
しかし、「依存症」というくくりで見れば、(誤解を恐れずにいえば)ありふれた病態であり、同じように苦しんでいる人は全国に多数いる。その気づきは、当時の私にとってプラスだった。
快感に依存“してしまう”ところに病気の本質がある
依存症に陥っている本人は、「快感に溺れる自分への嫌悪」を強く感じる。
しかし、健康な心身ならば溺れずに済むところを、溺れてしまう状態であるところに病気の根っこがある。快感に依存する自分が悪いのではなく、快感に依存してしまう自分の“状態”に気づく必要がある。
これが、摂食障害の快感について見ていくうえでの大前提だ。
実際、摂食障害は臨床の場でも「行動依存」のひとつとして位置づけられている。食べ物そのものへの依存ではなく、食べる・吐くという「行動」への依存であり、その背景には心の痛みや傷つきやすさを隠そうとする心理がはたらいているとされる。
こころの情報サイト(国立精神・神経医療研究センター)「摂食障害」、元住吉こころみクリニック「摂食障害はクセや依存症なのか」
拒食症が私にくれた4つの快感
では、「摂食障害の何が快感なのか」。
摂食障害にはいくつもの快感が複雑に絡み合っている。どの部分に快感を感じるかは、おそらく人によっても違うだろう。
ここでは、私にとっての快感を、拒食症と過食症に分けて挙げていく。
ただ、渦中にいた当時は「快感!気持ちいい!」なんて、まったく思っていない。毎日毎日くるしくて、苦しかった記憶しかない。それでも摂食障害にしがみついていた。状況証拠からみれば、しがみつくだけのプラスのもの(=隠れた快感)が、そこにあったのだ。
まずは拒食の快感から。
❶ 数字の快感
生まれて初めて「ダイエット」をした15歳のとき、それまで成長して増えていくのが当たり前だった体重という“数字”が、食べないことで減っていく。ここに、ものすごい喜びを覚えた。
数字には、魔力がある。ビジネスの売上・年収・貯金残高・投資の損益——病名こそつかなくとも、「数字」に対する依存に陥っている人は世の中に大勢いる。
ノートに記す数字が下がっていくときの快感は、象徴的なシーンとして今でも鮮やかに覚えている。
(摂食障害を振り返る過程で、記憶が鮮やかな部分は、それだけ重要なポイントだったと解釈している)
逆に、一度数字に取りつかれると、うまくいかなかったときの精神の乱れも大きくなる。体重が増えたときの異様なイライラも抱えるようになった。
❷ 称賛される快感
夏休みにダイエットで体重を減らしたあと、久しぶりに会った友だちに「痩せたね!」「かわいくなった!」「細い!」と褒められた。
雷に打たれたように、「痩せると称賛をもらえる」がインプットされた瞬間だった。
❸ 心配される快感
称賛されるレベルを超えて痩せてくると、もう褒められはしなくなる。しかし代わりに、また新しい快感が得られると知ってしまった。
「大丈夫?」「痩せすぎじゃない?」「体壊さないようにね」——痩せているだけで、「心配」を得られるのだ。
さらに限界まで痩せてくると、道を歩いているだけで人がジロジロ見たりヒソヒソ話したり、薬局でまったくの他人が心配して声をかけてきたりする。他人からの注目まで集められるのだった。
ちなみに、私がいちばん心配してほしかったのは母親だったのだが、奇妙なことに一言も心配の言葉をかけてもらえぬまま終わった。
❹ 死の快感
さらにその先にいくと、死に近づいていく快感があった。うまく表現するのが難しい。ふわふわと軽くなっていく感覚そのものに、(良くない)魅力がたしかにあった。
以上が、私が拒食から得ていた快感だ。
繰り返すが、そもそもこういったものに「強烈な快感」は、健常な精神なら感じない。たまたま感じたとしても依存はしない。快感を感じる自分を責めたり嫌悪したりしても意味はなく、「強烈な快感と感じて依存してしまうところが病的である(何らかのトラウマや育ちの傷や認知の歪みがあるかもしれない)」——その意味において、摂食障害は病気なのだと思う。
過食症が私にくれた3つの快感
次に、過食症側の快感を3つ挙げる。
❶ 食べる快感
これは一番わかりやすい。食べて食欲を満たすという快感だ。
とくに、拒食症で飢餓状態に陥っている体の食欲は尋常ではない。その破壊的な食欲を満たすという意味で、過食で得られる快感は強烈だった。乾ききったスポンジが水を吸い込むように。
毎回ではないけれど、脳天をかち割られるくらいガーンと強烈な刺激を経験した日は、今でもよく覚えている。拒食による抑圧(食欲を極限まで抑える)からの一気の解放(過食)が、快感を何倍にも増幅させていた。
(ただし、それはほんの一瞬。0.5秒くらいで終わる)
❷ 汚す快感
ただ食欲を満たすだけなら、おいしいもの・体によいものをたくさん食べればいい。
ただ、私は過食するときには、できるだけ“ダメなもの”を食べたかった。ジャンクフード・ファーストフード・適当な出前・コンビニの弁当。
それは、私が自分自身を汚したかったからだ。
汚すことには、一種の快感がある。
ちょっとジャンクフードを一口食べたなら、とことん汚してしまいたい。食べる量にしても、ちょっと食べたなら、とことん食べて過食にしてしまいたい。「0か100か」「白か黒か」で考える傾向が強かった。
補足として、“汚したい欲”はストレスを感じたときにも発動した。嫌なことがあり、自分の状態が負に落ちたときに、さらに負をぐちゃぐちゃに上塗りして目立たなくさせたい——そういう意味での「汚したい」もあった。
❸ 排泄の快感
3つめは、排泄の快感。嘔吐であったり、下剤であったり。
0か100かで、きれいなほうに一気にリセットする快感でもあるし、動物としての本能的な快感でもあると思う。排泄は生きるうえで大切な機能だから、一定の快感が付与されているのだろう。
健康な人でも、気持ちが悪くて我慢していたのに吐いたらスッキリしたとか、便秘が続いていたけれどドバッと出て爽快、という経験は普通にあるはずだ。摂食障害を長年やっていく中で、この排泄のプロセスが“上手”になってしまった面はあった。
快感の正体を知ると、景色が変わる
ここまで書いてきた快感は、あくまで私個人の体験による分析。
ただ、何が何だかわからずに摂食障害に巻き込まれている状態と、何が起きているかを理解したうえでそこにいる状態では、感覚が違う。
「ああ、私はいま、快感に依存してしまうようなメンタルの問題を抱えていて、そこにちょうど拒食・過食の快感がハマって、依存症に陥っているのだな」
——そう理解したうえで摂食障害と向き合う。やめられないとしても、自分に何が起きているのかを知っている。この差は大きかった。
快感から抜け出すために重要だった2つのアプローチ
快感の正体を知ったうえで、私がどう抜け出していったのか。「あれはターニングポイントだったな」と振り返って思うアプローチが2つある。
❶ 快感を“ずらす”(依存対象のシフト)
1つめは、快感の対象をずらしていくという方法だ。
私は人生の途中まで、とにかく棒のような脚が欲しく、ペタンコで平べったい体幹が欲しく、華奢で消え入りそうな圧倒的な細さが欲しかった。それを持つことで、先に書いたような快感を得ていた。
「認知の歪み」が症状として挙げられる摂食障害だから、極端で人には理解されにくい価値観を握りしめていても不思議ではない。
ただ、現在の私は、そこ(圧倒的な細さ)に価値を見いだしていない。以前は圧倒的な細さを持つ人を見ると「いいな!」「うらやましい!」とテンションが上がったものだが、今はそうならない。
「価値観」とは、移ろいやすいものだ。
具体的に何をしたか
華奢で消え入りそうな圧倒的な細さを善としていた価値観を、「凹凸のある筋肉がつき、ぜい肉がなく、引き締まった体」を善とする価値観に変えていった。
価値観を変えるのは、それほど難しくはない。自分がいる世界線を変えればいい。消え入りそうな細さを称賛する人がいる世界から、筋肉を称賛する人がいる世界に移ればいいのだ。
現代は便利なもので、SNSでフォローするアカウントを変えると、(擬似的に)サッと世界が変わる。
手放したい過去の価値観(細さ=善)を増強させるリスクのある情報は目に入れないよう工夫し、手に入れたい新しい価値観(筋肉=善)をサポートしてくれる情報を浴びていく。
快感を欲する根本的な心の問題を解決するには時間がかかる(その方法は次のアプローチで書く)。だから、快感を得たい気持ちはそのままに、対象を少しずつ変えていく。これは、いわば応急措置。
細さを追求すると命に関わるが、筋肉を追求すると逆に健康的になれる。依存の対象を、命を削る方向から命を育てる方向へとずらす試み。
あえて強い言葉を使えば、「筋肉の付いた体が美しい(筋肉のない体は醜い、だらしない)」という認知に、自分の感覚をシフトさせていった。
本音をいえば、筋肉のない(ほかの人の)体が醜いとかだらしないとか、思っていない。ただ、生命の危機を引き起こす認知を修正するために、そう思い込んで、行動を変容させていった、というカラクリ。
❷ 快感で“得たかったもの”を意図的に満タンにする
2つめが、根本的な措置にあたる。
快感によって得たかったものを、意図的に満タンにするという作業だ。
褒めてほしかったなら、褒められまくる。認めてほしかったなら、認められまくる。
カラッカラに乾いているので、ちょっとやそっとでは満タンにはならない。 ここまでの人生の何十年分も、浴びて浴びて浴びまくる必要がある。
重要なのでもう1回書くけれど、ちょっとやそっとでは満タンにはならない。ちょっとやったところで「効果がない」とやめてしまうのはもったいない。浴びるように、シャワーのように、欲しかったものを得続ける必要がある。
それを誰かがやってくれたら超ラッキーだけれど、そんな恵まれた話は(たぶん)起きないので、自分でやる。
私が実際にやったこと
この10年くらいを振り返って、何が私にとっての“シャワー”になっていたのだろう?と考えると、いくつかパッと浮かぶものがある。
アプリの読み上げで言葉のシャワーを浴びまくる。 5〜6年前の話だが、チャット形式で複数の人物を設定してセリフを入力すると、それぞれ違う声(男性・女性・子どもなど)で再生してくれるアプリを使っていた。
これで、私が言われたかった言葉を入力して、再生しまくっていた。
子どもの頃の記憶で何度も浮かぶシーンで親に言われたかった言葉でもいいし、摂食障害をやりながら人に求めている言葉でもいい。コツは、自分の名前を入れることだった。「ありがとう」と100回聞くよりも、「○○ちゃん、ありがとう」と名前つきで1回聞いたほうが、心へのインパクトが大きかった。
自分の尊厳が保たれない場所から去る。 ストレスを感じるところ・傷つく言葉を投げてくる人・雑に扱われる場所——せっかく自分を満タンにしようとしているのに、日々そういう体験をしていると、なかなか満タンにならない。バケツに穴が空いている状態だからだ。
やめる・切る・別れる・連絡を断つ・絶縁する・SNSのフォローを外す。
もちろん、諸般の事情ですぐには難しいケースもある。その場合は、「すぐにはできないから“できない”」と結論しない。3年計画で“去る”をスタートする。 3年あれば、どんな場所からも去れる。今すぐでないからと「できない」と結論するのはもったいない。
なお、「自分の目に入らない」が達成できれば十分なので、相手に気づかれずにミュートにする方法でもいい。SNS上でも実生活でも、“ミュート的な対応”は有効だ。
さまざまな本をシャワーのように読む。 これは子どもの頃からの習慣で、つらいときに救いを求めて手が出るのは、いつも本だった。自己肯定感を育てるうえで役立ちそうな本を、手当たり次第、シャワーのようにたくさん読んだ。
摂食障害の“二次障害”は別途ケアをする
ここまで書いてきた「快感をずらす」「ほしかったものを満タンにする」というアプローチを実践するうえで、じつはその前にクリアしなければならない問題があった。
摂食障害をきっかけとして発生した新たな問題、「二次障害」への対処だ。摂食障害は、メンタル面だけでなく体へのダメージが大きいために、問題が複雑化しやすい。
私と摂食障害のあいだに距離ができはじめた最初の一歩は、二次的に起きていた問題への対処だったように思う。
栄養不足によるメンタルの崩壊
端的にいえば、摂食障害の全盛期は、摂食障害そのものが引き起こした「栄養不足」によって、メンタルが崩壊していた。
当時、病院で施されていた治療は、投薬とカウンセラーによるカウンセリングだった。カウンセリングで「認知の歪み」に取り組もうとしても、摂食障害によって「本来の私」の上に栄養不足による精神崩壊が乗っかっている状態では、大きな変化は感じられなかった。
(これはあくまで個人的な体験による感想であり、カウンセリングで治療効果が大いに出ている人もいるだろう。ただ、私に限っていえば、難しかった)
転機になったのは、サプリメントとの出会い。最初は「薬」への興味が強く、ネット掲示板でほかの人が効いたという薬をなんとか処方されたくて、主治医をそちらに誘導するような話をしたりしていた。その興味が、徐々にサプリメントへ移行した。サプリメントなら、自分の判断で入手できるから。
サプリメントを試行錯誤するなかで、ひとつの気付きが生まれる。
- 「私は精神疾患だと思っていたけれど、これって栄養不足なんじゃないの?」
特定の栄養素の不足が、脳に直接影響を与えているのでは?という実感だった。
とくに転機となったのが、鉄分とメンタルの関係性を知ったこと。鉄分はセロトニン(心の安定に関わる神経伝達物質)の合成に必要な栄養素であり、不足すると異常な落ち込みや不安感につながる。
摂食障害でモノが食べられないときでも、幸いサプリメントは飲むことができた。鉄分での実感を足がかりに、自分に必要な栄養素を調べて補給していった。栄養不足が引き起こしていたメンタル崩壊は、この対処でずいぶんとケアできたと思う。
糖質過多によるメンタルの不安定
もうひとつは、糖質過多の問題だ。
過食時に大量の糖質を摂取すると、血糖値が急上昇・急降下を繰り返す。この血糖値の乱高下が、メンタルの不安定さに拍車をかけていた。
糖質制限の食事法に切り替えると、食欲のコントロールがかなりラクになった。慢性的に抱えていた不調の多くが糖質によるものだったと気づいた。
糖質制限は万能ではなく、合う人・合わない人がいる。ただ、摂食障害という大きな問題を抱えていた当時の私にとっては、有効な対処法だった。
摂食障害のケアには「問題の切り分け」が役立つ
摂食障害によって引き起こされる二次障害の内容は、人によって異なる。私の場合は「栄養不足」と「糖質過多」が主だったが、ほかの要因が大きい人もいるだろう。
摂食障害をケアするうえで意識したいのは、問題の切り分け。問題の切り分けとは、複雑に絡み合った問題を分解して、ひとつひとつ個別に対処していく方法。システム障害の復旧やビジネスの課題解決でよく使われる考え方。
個人的には、「摂食障害の原因は母子関係にある」というまるっとした通説にとらわれすぎると、回復が遅れると考えている。
母子関係さえクリアすれば回復できるとしがみつくのは、私の場合、幻想でしかなかった。その一点で突破するには摂食障害は複雑すぎたし、そもそも、母子関係を解決しようと願うこと自体も幻想だった。
摂食障害は複雑で多層で入り組んでいる。母子関係だけでなく、栄養不足による脳への影響・糖質過多による血糖値の乱高下・依存症としての行動パターン・認知の歪み・その他のさまざまな要素が、多層に重なっている。たったひとつの原因を求めるのはナンセンスだし、非効率だと思う。
複雑に絡み合った問題を切り分けながら、立体的にひとつずつケアしていく。そうすれば、がんじがらめだった糸は、ほどける。少しずつかもしれないが、確実に。
参考文献:
この記事に書いた内容は、すべて私個人の体験と主観に基づくものであり、医学的な治療指針ではない。摂食障害の症状や回復のプロセスは人によって大きく異なる。もし今つらい渦中にいるなら、専門の医療機関への相談を。

