前回の記事の続き。
今日は、「摂食障害という“依存症”は、どんな快感に依存しているのか」という観点で摂食障害を見つめるために、摂食障害の快感について書きたい。
前提:得られた快感に「依存してしまう」ところに病気の本質がある
私は、摂食障害という病気を、教科書などで誰かに教えてもらったわけではない。
自分の状態を見つめる途中で体感していたことを、たまたま何かの情報(雑誌、ニュース、ネットなど)で見て、「私と同じだ」と答え合わせをするように知っていった。
そんな風に知った1つが「摂食障害は依存症の一種」ということ。
それは、雑誌で見掛けたアルコール依存症のチェックリストを見ていたら、「これ、アルコールをそのまま“食べ物”に置き換えたら、摂食障害じゃん」と気づいたから。
アルコール依存症、薬物依存症、ギャンブル依存症、ニコチン依存症、買い物依存症、恋愛依存症、仕事依存症……依存症は、たくさんある。
摂食障害は、その行為があまりにも特殊で、おぞましくて(…と私は思っていた)、ものすごく特別なモノ、という感覚があった。
しかし、「依存症」というくくりで見れば、(誤解を恐れずにあえていえば)よくある、ありふれた病態で、同じように苦しんでいる人(…仲間、といっていいかもしれない)は、全国に多数いるのだという気づきは、そのときの私にとってはプラスだった。
依存症に陥っている本人(または依存症の知識のない他人)は、「快感、快楽に溺れていることへの嫌悪」を強く感じてしまう。
しかし、普通の健康な心身ならば、快感に溺れないで済むところを、溺れてしまう状態であるところに、病気の根っこがある。
快感に依存しないと生きていけない何かが、問題の本質であり、快感に依存する自分が悪いのではなくて、快感に依存してしまう自分の状態に気づく必要がある。
これが、摂食障害の快感について見ていくうえでの、大前提。
で、「じゃあ、摂食障害の何が快感なの?」というところ。
摂食障害には、いくつもの快感が、複雑に絡み合っている。「摂食障害の、どの部分に快感を感じるか」は、おそらく人によっても違うだろう。
ここでは、私にとっての摂食障害を分析した結果、気づいている快楽を、①拒食症、②過食症、の順にそれぞれ挙げていく。
ひとつ注意点として、これらは渦の中から少し離れた場所までたどり着いて振り返って、分析してわかったことであり、当初は「快感!気持ちいい!」…なんて、まったく思っていない。
毎日毎日くるしくて、苦しかった記憶しかないけれど、それでも摂食障害にしがみついていた。状況証拠からみれば、それでもしがみついてしまうプラスのもの(ここでは快楽、快感)が、そこにあったから、しがみついていたのだ。
じゃあ、それって何なの?と振り返ると、隠れた快感だった、という話だ。
①拒食症が私にくれた4つの快感
拒食症が私にくれた快感は3つある。
- 数字の快感
- 称賛される快感
- 心配される快感
- 死の快感
…だ。
数字の快感
生まれて初めて「ダイエット」をした15歳のとき、それまで成長して増えていくのが当たり前だった体重という“数字”が、食べないことで減っていくことに、ものすごい喜びを覚えた。
数字には、魔力がある。
ビジネスで売上を上げること、年収を上げること、貯金通帳の数字を増やすこと、投資、節約……
病名こそつかなくとも「数字」に関する依存に陥っている人は、多いはずだ。
生まれて初めてのダイエット経験は、私の中で鮮やかだった。ノートに記す数字が下がっていくときの快感は、象徴的なシーンとして鮮やかに覚えている。
(摂食障害を振り返る過程で、記憶が鮮やかな部分は、それだけ重要なポイントだったと解釈している。特に、無意識的でも最初の快感を覚えたシーンは、記憶に残る)
逆に、一度数字に取りつかれると、それがうまくいかなかった場合の精神の乱れも大きく、体重が増えたときの異様なムシャクシャも抱えるようになった。
称賛される快感
夏休みにダイエットで体重を減らしたあと、久しぶりに会った友だちに
- 「痩せたね!」
- 「かわいくなった!」
- 「細い!」
と褒められた。気持ちがいい。
雷に打たれたように、「痩せると称賛をもらえる」がインプットされた瞬間だった。
心配される快感
称賛されるレベルを超えて痩せてくると、もう褒められはしなくなる。
しかし代わりに、また新しい快感が得られることを知ってしまった。
- 「大丈夫?」
- 「痩せすぎじゃない?」
- 「体壊さないようにね」
痩せているだけで、「心配」を得られるのだ。
さらに限界まで痩せてくると、道を歩いているだけで人がジロジロ見たりヒソヒソ何かをいったり、薬局でまったく他人が心配して声をかけてきたりと、他人からの注目も集めることができるのだった。
ちなみに、私がいちばん心配してほしかったのは母親だったのだが、奇妙なことに一言も心配の言葉をかけてもらえぬまま終わった。
死の快感
さらにその先にいくと、死に近づいていく快感があった。
これは、うまく表現ができない。
ふわふわと軽くなっていくこと自体の、(良くない)魅力が、確かにあった。
以上が、私が拒食から得ていた快感。
冒頭で書いた話と重複するが、そもそもこういうことに「強烈な快感」は、健常な精神なら感じない。たまたま感じたとしても依存はしない。
快感を感じること自体を責めたり嫌悪したりしても意味はなく、「強烈な快感と感じて依存してしまうところが病的(何らかのトラウマや育ちの傷や認知の歪みがあるかもしれない)」という意味で、摂食障害という病気があると思う。
②過食症が私にくれた3つの快感
次に、過食症が私にくれた快感は3つある。
- 食べる快感
- 汚す快感
- 排泄の快感
食べる快感
これは一番わかりやすい。食べて食欲を満たすという快感。
特に、拒食症で飢餓状態に陥っている体の食欲は尋常ではない。その破壊的な食欲を満たすという意味で、過食症で得られる食の快感は強烈だった。
乾ききったスポンジが水を吸い込むように。
毎回ではないけれど、脳天をかち割られるくらい、ガーンと強烈な刺激(快感)を経験した日のことは、今でもよく覚えている。
拒食による抑圧(食欲を強烈に抑える)からの、一気に解放(過食)による快感の倍増効果も相まって、その瞬間には大きな刺激がくる。
(ただし、それはほんの一瞬だけ。0.5秒くらいで終わる)
汚す快感
ただ食欲を満たすだけなら、おいしいもの・体に良いものをたくさん食べれば良い。
ただ、私は、過食するときには、できるだけ“ダメなもの”を食べたかった。
ジャンクフードとか、ファーストフードとか、適当に出前で取ったものとか、コンビニで買ったものとか。
それは、私が私のことを、汚したかったからだ。
汚すことには、一種の快感がある。
例えば、ちょっと汗ばんでシャワーを浴びるとして、でもどうせシャワー浴びるなら、とことん筋トレもジョギングもして、思いっきりベタベタになってから一気にシャワーを浴びよう。
…みたいな感覚に近い。
どうせジャンクフードを一口食べたなら、とことん汚してしまいたい。という欲がある。
そこに「私は汚い存在だから、汚さないといけない」みたいな精神性は(私の場合は)あまりなくて、単純にちょっと汚れたものを、とことん汚したいという欲。
食べる量にしても、ちょっと食べたなら、とことん食べて過食にしてしまいたい、みたいな。
中間がなくて、「0か100か」「白か黒か」で考える、という類いの話のほうに近い。
補足として、“汚したい欲”は「ストレス」を感じたときにも発動した。
嫌なことがあり、ストレスで自分の状態が負になったときに、さらに負をぐちゃぐちゃに上塗りして目立たなくさせたい…、みたいな意味での「汚したい」もあった。
排泄の快感
3つめは排泄の快感。
嘔吐であったり、下剤であったり。
これは、0か100かで、きれいな方に一気にリセットする快感でもあるし、動物としての機能でもあると思う。
排泄は大切なことなので、ある一定の快感が付与されていると思う。
健康な人でも、気持ち悪くて我慢して吐いたらスッキリしたとか、便秘続きだったけどドバッと出て爽快、みたいなことは普通にあるはず。
これが摂食障害を長年やっていく中で、上手になってしまった面はあった。
何が起きているのか知ると変わる
今回書いたのは、私の経験した快感だけれど。
何が何だかわからずに摂食障害に巻き込まれているときと、何が起きているかわかったうえでそこにいるときでは、あり方が変わる。
「ああ、私はいま、快感に依存してしまうようなメンタルの問題を抱えていて、そこにちょうど拒食・過食の快感がハマってしまって、依存症に陥っているのだな」
とわかっていて摂食障害を意志的にやっていく。
(続く)