「摂食障害を克服したあとの後遺症はあるか?」という質問をいただいた。この質問の答えの他に、私の思うところも含めて、摂食障害の克服と後遺症について、書いてみたいと思う。
ただ、これはあくまでも「私の場合」の話。そこは切り離してお読みいただければと思う。本当にいろいろな考え方や状況があって、そのすべてが正しいと思うので。
「克服した」という感覚はあまりない
「克服してどうでしたか?」と問われて初めて、
- 「あれ、わたしは自分のことを、摂食障害を“克服”したとは思っていないのだな」
ということに、気付いた。
もう少し丁寧に説明すると、私にとって「克服」という言葉は、“抑えつけてやっつける”みたいなニュアンスがある。摂食障害に対して、今はそういう気持ちを持っていないことに気付いた、ということ。
摂食障害に対する考え方を、私なりに心込めて書いた記事がある。
本記事を読み進める前に、上記記事(↑)を一読していただければと思うのだけれど、どこからか「摂食障害と寄り添う」スタンスへと変わっていった。
生命体としての私たちの心や体は、圧倒的にパーフェクトだと思っている。
だから、病気であれ依存症であれ、私たちの「頭」で考えると「悪」としか思えないことも、心と体がバランスを取るために必要だから起きているという考え方をしている。
そういう意味で、何か起きていても、常に100%完璧で、調和が取れており、バランスが取れているという風に。
その考え方からすると、摂食障害が必要な自分には、必要な理由があり、必要な理由が消滅するまでは、しっかりと摂食障害をやる必要がある、ということになる。
そんなスタンスで摂食障害と、ゆるゆると寄り添っていたら、いつの間にか、摂食障害が私の生活から消滅していた、という感覚。
そういう意味で、「克服した」という感覚が、ないのだ。
ターニングポイントはいくつかあった
中高生の頃に始まって、上下や強弱がありながらも、10年、15年というスパンで持ち続けた摂食障害。
「克服した感覚はない」ものの、「これをきっかけに、自分の中で摂食障害が薄らぐスピードが加速した」というターニングポイントが、いくつかあった。
それは下記のようなもの。
- 精神科に通うのをやめた
- 親と距離を置いた
- ストレスの強い仕事を離れた
- 排出行為(下剤・利尿剤・嘔吐)をやめた
- 食事を糖質制限にした
- サプリメントでの栄養補給を始めた
これらは一気に行ったわけではなくて、これらを行うごとに、摂食障害の薄らぎが強くなっていった、というイメージ。
それぞれ、少し補足する。
精神科に通うのをやめた
精神科に通うのをやめたのは、主治医(女医)に私が依存していることに、気付いたから。
母親を主治医に投影してしまい、
- 主治医に心配されたい
- 治った(もう大丈夫)と思われたくない
- 重症の患者でいたい
という気持ちが、自分の中にあることに気付いたのだ。
だから、〈次回の受診日に向けてもっと痩せるためにがんばる〉という、悪循環が起きていた。受診日は、元気に見られたくないから、メイクなんかも絶対しないで、具合悪そうな顔をして行っていた。
これを繰り返している限り、私は一生、摂食障害から抜け出さないだろうなと思ったので、通うのをやめた。
ただ、当時、精神科で処方された薬を飲んでいたので、それを突然断薬するわけにも行かず、違う精神科に通って同じ薬だけ、もらっていた。
親と距離を置いた
摂食障害患者は、「母親との関係性」に課題を抱えていることが多いと言われる。私も、そうだった。
親と距離を置くことで、それまでと比較して、格段に心の平和が訪れた。
「親だから大事にしなければいけない」とか、「がんばればもっと愛されるはず、愛されたい」という幻想の中に生きていてつらいのであれば、〈毒親〉関連の本を読むと、意識が変わるかもしれない。
毒親漫画の『母がしんどい』の著者である田房永子さんの『呪詛抜きダイエット』が、私はとても好きだった。
ストレスの強い仕事を離れた
私は典型的な完璧主義・がんばり教に陥っており、仕事でもなんでも、〈やりすぎて最終的には体を壊す〉というパターンの中にいた。
認められたいという気持ちと、完璧にやらないと気が済まないという気持ちと、苦労していると思われていたい気持ちで、がむしゃらに仕事をする。
だから、「仕事ができる完璧な人」として認められ出世したけれど、家に帰れば摂食障害で、そのギャップがつらかった。
がんばりすぎてしまう場合は、がんばる以外の考え方を、学ぶといいかもしれない。「がんばらない」ことを教えてくれる本は、本当にたくさんある(がんばらない本のリストはこちら)。
排出行為(下剤・利尿剤・嘔吐)をやめた
排出行為をしている限りは、摂食障害が薄らぐことは決してないことは、本当に学んだ。
下剤をやめていく過程は、下記の記事に書いてある。
食事を糖質制限にした
炭水化物や甘いスイーツは、いくらでも、際限なく食べることができてしまっていた。
それを食べないことにして、食事を糖質制限にシフトしたら、急速に食事がラクになった感触があった。
最初は、糖質さえ抑えていれば、食べ放題でチャレンジしていいと思う。糖質制限の流派や指導者はたくさんいるけれど、肉・卵・チーズを食べる「MEC食」が、簡単でわかりやすいと思う。

「たっぷり食べていい」という安心感が摂食障害の人にもうれしい(肉・卵・チーズをたっぷり食べて 1年で50kg痩せました)
これは「肉・卵・チーズを体が満足するまでたっぷり食べる」という食事方法。摂食障害の人は、量を制限するのがきつい。
MEC食をもとに、
- 「肉・卵・チーズはいくらでも食べていい(その代わりそれ以外は食べない)」
という自分ルールで食事を始めると、炭水化物に比較して体重は増えないし、正常な食欲が戻ってきやすかった。
サプリメントでの栄養補給を始めた
サプリメントで栄養補給を始めたことは、食欲が安定するのに役立ったと思う(何らかの栄養素が欠乏していると、その栄養素を求めて激しい食欲が起きることがあるので)。
特に、体感として「鉄分」「マグネシウム」「亜鉛」は、鍵を握っている感じがする。
いつの間にか、摂食障害ではない感じになっていた
こんな感じで、自分の体の様子を見つつ、いろいろなターニングポイントを経て、ふと気付いたら、摂食障害ではない感じになっていた。
何かひとつ食べ始めたら、パンパンに押し込むまで食べないと気が済まなかった食欲もなりを潜め、「普通の人の一食分」で、「おなかいっぱい!ごちそうさまでした!」と言える自分がいる。
下剤を使うこともないし、使いたいと思うこともない。
「ひとつのものを、淡々とたくさん食べたい」という性質はあって、食べたいときに「ナッツだけ」「梅干しだけ」という具合に、それをたくさん食べることはある。
でも、それは摂食障害というより、単なる好みとして捉えている。
余談
ところで、余談に脱線するけれど、いま、
- 「普通の人の一食分」で、「おなかいっぱい!ごちそうさまでした!」と言える自分がいる
と書いた。こういう「その先のイメージ」を、さりげなくインプットするのは、とてもいいと思う。
私はかつて、どこかで見た、
ごはんを食べたあと、「お腹出ちゃった!」と言って、出っ張ったお腹を楽しそうにさすっている友人を見て、うらやましかった。
ごはんを食べたらお腹が出る。そんな当たり前のことを、普通に受け入れている友人。
という趣旨のコメントが、ずーーーーっと、心の中に残っていた。なんらかの反応が心起きたからこそ、一見なんの変哲もない文章が、記憶に残り続けたのだと思う。
そして、無意識のうちに、「この友人みたいな感じに戻れたらな」という指標になっていた気がする。
「摂食障害を克服しなくちゃ」とがんばると、
- 過食嘔吐しない自分
- 下剤を使わない自分
- 食べすぎない自分
という風に、「●●しない自分」に意識のフォーカスがいく。脳は、「●●してはいけない」と禁止するほどに、そこに固執するので、がんばってもがんばっても抜け出せない、という悪循環になる。
それよりは、
- 食べた後、出っ張ったお腹を笑って眺める自分
- 一食分でごちそうさま!とお箸を置ける自分
- ゆっくりゆっくりよく噛んで味わって食べる自分
という具合に、「こうなりたい自分」にさりげなくフォーカスした方が、うまくいきやすい。
摂食障害の後遺症について
摂食障害を、「私の中に入ってきた異物の敵」と捉えるのをやめて、「私にそのとき必要な一部」として捉えると、現在の自分の状態の、どこからどこまでが摂食障害の影響なのかの、区別が非常に不明瞭になる。
そういう意味で、私には、「これが摂食障害の後遺症」として、抱えているものがない。
今現在の私の体質は、「いまの私の状態」として、過去と連動させずに捉えている節がある。
あえて言えば、昔よりもむくみやすくなったのはあるかもしれない。でも、よくよく思い返してみると、昔からむくみやすかったのかもしれない。
だから、何が摂食障害の後遺症なのかはわからなくて、単に「私はいまこういう状態」として、受け入れるようにしている。
摂食障害がもたらした効果
私が過去に摂食障害だった事実に変わりはないので、どうせなら後遺症を探すよりも、摂食障害が私にくれたものを探したいと思っている。
デトックスができた
摂食障害がもたらしたもののひとつは、
- 超・デトックスができたのでは???
ということ。
例えば、重病になった人が民間療法で断食を行ったり、野菜ジュースだけで暮らしたりする。それは、体の免疫力を高め、体に溜まった老廃物や有害物質の排出を促進して、デトックスするため。
捉え方を変換すれば、拒食症の時期にやっていたことは、このデトックスになるのだ。
だから、私の体は、体重が30kg前半まで減ったあのときに、ある意味で生まれ変わったと思っている。あのとき、体がデトックスされていなかったら、今頃、何やら大変な病気にかかっていたかもしれない。
でも、
- 「あのときにデトックスされているから私は大丈夫」
- 「私の体はクリアで健康!」
という、根拠はないけれど私にとって快適な思いが芽生えた。
いまの私を作った
もうひとつは、摂食障害を通して、悩んだり考えたり、救いを求めていろいろな本を読んだり心理学を学んだりして得た、現在の私という人格。
悩みの過程で、心もたくさんデトックスできた。摂食障害になる前よりも、ずっとずっと心が軽くなって、これからの人生を幸せに生きられる人間になった。
摂食障害がなかったら、こんなにも自分と向き合うことはなかったと思うし、それをくぐり抜けてきたことは、私の財産だと思う。
新しい景色へ
もちろん、こんな風にすぐに考えられるようになるわけはない。苦しんでいるときは、本当に苦しかった。もう人生をおりたいとも思った。
でも、最後の最後で、自分を助けることを、諦めなかった。最後の最後で、自分を信じた。最後の最後で、自分を大事にできるようになりたい、愛せるようになりたいという一抹の思いを、必死に手放さなかった。
私たちの体は、私たちの心は、私たちを見放すことはないと思う。5年、10年、20年、、、と長い時間がかかってもいいし、極論、摂食障害を卒業できなくたっていいのだ。
それでさえ、問題はない、すべてはOKと捉えられるようになったとき、また新しい景色が広がっている。