「ダイエット」とともに人生はあった。
……と言っても過言ではないほど、常に体重・体型を意識して生きてきたが、ここへきて、体重が全然気にならなくなった。
人って同時にひとつしか悩めないというが、ダイエットを上回る悩みが出現すると、あれだけこだわりの強かったダイエットでさえ、脇に追いやられてしまうという不思議。
人は複数のことを同時に悩めない
「人は複数のことを同時に悩めない」というのは、私自身の実感としてもある。
同時にいくつもの悩みを抱えていたとしても、ある時点で頭をいっぱいにして胸を苦しめている悩みはひとつだ。ふたつ一緒に考えることはできない。
あれだけ悩んでいたのに、新たな悩みが出現した途端に、過去の悩みが吹っ飛ぶ、ということも起きる。
どうせひとつのことで悩むなら、少しでもラクな悩みにシフトできたら、それが良い。
※最近、同じ趣旨のTweetがバズっているのを見掛けた記憶があり、ここへリンクしようと思ったが見つけられず。
悩みの興味が体重から老化へシフトした
最近、どうして体重がさほど気にならないのだろう、と考えると、それは悩みの興味対象が体重から老化へシフトしたからなのだ。
このブログ内でも幾度か書いたことがあるが、痩せれば痩せるほど可愛くなれたのは10代・20代まで。
30代以降になると、
- 痩せる→老ける
がセットになりやすい。
昔だったら、
- 「痩せたね!かわいくなった!」
というシーンで、
- (痩せた?あれ老けた?やつれた?病気じゃないよね?仕事うまくいってない?)
となるリスクが高い。年を重ねるほどに。
20代最後の頃からこの傾向は顕著になって、
- 顔を老けさせずに痩せるにはどうしたら良いのか?
は至上命題だった。
そんな背景もありつつ、私の興味は「いかに痩せた体でいるか」から「いかに顔をキープするか」へと移っていった。
優先順位が体重から顔へシフトした
結果、美容の優先順位が体重から顔へとシフトした。
体重が減って顔が老婆みたいになるのであれば、体重が増えたとしても老けない顔でいたい。
このシフトは意図して起こしたものではないが、改めて考えると、シフトしていなかったらどうなっていたことかとゾッとする。
客観的な目線を持ちつつ、自分の目指す美容を成立させる過程で、「優先順位」を明確にすることは大切だと思う。
欲望の塊である自分を優先順位でうまくなだめる
本音ではアレも欲しい・コレも欲しいんだけど、それは現実的に無理なので、何かを諦めていく。その過程で「優先順位」が強い味方になってくれる。
私は顔が老けるのがイヤだ、でも太った体もイヤだ。
しかし、私は顔の作り的に、痩せすぎると上まぶたがくぼんで、ほうれい線が出て、頬がコケて、骨っぽくなりやすいのだ。
首の細さ・長さ的にも、あっという間に鶏ガラ風味になりやすい。
じゃあ、優先順位は?という問題だ。鶏ガラ老婆になっても痩せていたいのか、それとも何かを犠牲にしても鶏ガラ老婆を阻止したいのか。
「何が何でも痩せていたい」と痩せることの優先順位が高い時期もあったが、現在の私は(過去に比べれば)体重への執着はない。
顔が老けないためなら、体重を増やしてもいいと思うくらいだ。
執着の対象が「顔が老けないこと」に変わっただけではあるが、まあいい。そっちの方がキレイでいられるなら。
自分のことをよく知っていると英断しやすくなる
優先順位をもとに、パキッと明確な判断を下していくとき、役立つのが「自分を知ること」だ。蓄積した自分データの有効利用。
自分のことをよくわかっていなかった10代・20代の頃は、根拠を持って方針決定ができないから、随分ウロウロと迷路をさまよっていた気がする。
今は、例えば前述の
私は顔の作り的に、痩せすぎると上まぶたがくぼんで、ほうれい線が出て、頬がコケて、骨っぽくなりやすいのだ。首の細さ・長さ的にも、あっという間に鶏ガラ風味になりやすい。
というデータを持っているから、〈私の肉体では体重にこだわっていては顔の若さをキープできない〉ことへの諦めが早々につく。
これは年を重ねてデータが溜まっている美容の利点だと思う。
時代の流れも後押ししてくれた
別視点から、もうひとつ。
ひとりで生きているようでいて、時代の流れには意識していなくても(集合意識的な)影響を受けていると感じる。
特に情報を仕入れたわけでもないのに、気づくと流行と同じ流れの中に自分がいるということが、よくある。
今、私が体重の執着から抜けていることにも、その影響は感じる。
「筋トレ女子」なる言葉が生まれ、体重をむしろ増やしたいと宣言するモデルが現れ、ガリガリに痩せているより鍛えて締まった体を良しとする風潮に、気づけば私も乗っている。
補足:今現在、体重への病的な執着が抜けない人は?
ここから摂食障害の人への補足。
私は過去に摂食障害だった時期があるが、この記事で書いていることは、摂食障害からかなり遠い場所まで来てから起きた変化だ。
この記事を現在進行形で摂食障害の人が読んで、「体重への執着を捨てるなんて無理すぎる」と切り捨てるとしたら、それは当然だと思う。
私自身、そうとしか思えなかった時期から何年か過ぎて、思考の変化が起きて、今の地点にいる。
体重の執着へ握りしめたこぶしを今無理やりに開く必要はないけれど、万が一、思考の変化が起き始めたときには、強い抵抗はしないだけの心構えをしておいても、良い気がする。
信じられないかもしれないけれど、変化って起きるものなのだ。ほんの少しずつ少しずつ起きるので、見逃しやすいけれど。