ちょっと、ふしぎな感覚に包まれた。
自分のために何かをする勇気
この記事は、先日書いた以下の記事の続編。
自分のためだけに、料理を作るとか、洗濯物を畳むとか、“ちょっとした手間”をかけることができないという話。
端的にいえば「自分を大切にできない人」として片づけられるが、感覚としては、大切にできない…というより「大切にするのがたいへん」という感じが近い。
自分のために何かをするのって勇気がいることだし、私にとっては、自分を大切にしていない状態のほうが心地が良い。
大切にできなくて、つらい思いをしていて、かわいそう……というより、大切にしていない方が単にラク、というか。
大切にしないでいることには、それなりのメリット(顕在的か潜在的かはさておき)があるのだと思っていた。
もう少し踏み込んでいえば、「こんな粗末なモノに手をかけることはいけないことだ」と思っていて、そのルールを破らずに守っている方が、心がラクなんだろう。
ルールを破ってしまえば、それなりの罰則があるから。
あえて「自分のためだけに」を意識的に強く念頭において料理してみる
そんな記事(自分を粗末に扱っているほうが安心するという謎)を書いたあとのタイミングで、ふと、
- 今日は、あえて、「自分のためだけに」を意識的に強く念頭において料理してみよう
…と思った。
もちろん、長い人生のなかで、(行動だけ見たときに)自分のためだけに食事を作ったことは、数え切れないほどある。
自炊が基本だし、料理は子どもの頃からしている。ただ、意識が違う。
私にあまり手間をかけてはいけないので、作る工程はできるだけ簡素に済ませる。
それを、あえて、「おいしいものを食べさせてあげたい」と思う相手(自分以外の人)に料理を作るときと同じ意識状態に設定して、自分のために料理をしてみる、という実験だ。
こんなの、多くの人にとっては「は?」という感じかもしれない。
YouTubeの動画などをサクッと検索するだけで、自分のためだけに手間暇かけて、食材選びから丁寧な料理の工程まで、おいしい食事を作る人たちがたくさんいることは知っている。
それを、意識しないとできないので、意識して、あえてやってみるという実験だ。
(「実験だ」と連呼しないとできないところも、特徴的だ。実験だから良いのだ、と言い訳している)
自分のための手作り夕食が完成
さて。
そんな意識の「決意」とともに夕食づくりに着手。
- 「私が食べたい好きな味のものを、私に食べさせてあげる」
フライパンを出し、サバを処理し、にんにくを刻み、玉ねぎをスライス。
包丁がまな板に当たるたび、トントン、トントン…と音がする。
フライパンでたっぷりのオリーブオイルを温めたら、刻んだにんにくを入れる。パチパチと油がはじける音とともに、ガーリックの食欲をそそる香りが漂い出す。
フライパンにサバを入れ、両面をこんがり焼く。茶色の焦げ目がついてパリパリに焼けていくサバの近くに、スライスした真っ白な玉ねぎたちを配置して、ザッと全体を混ぜる——。
サバとイタリアン風炒めと、大根サラダと、野菜のおみそ汁。
ものすごく簡単なメニューだけれど、こんな簡単なメニューさえ「自分だけのために」作ったことはないことに気づいて、がーんと頭のなかに音がする。
盛り付けも私のためにしてあげる
どうせ自分しか食べないごはんでも、ちゃんと美しい盛り付けをしてあげる(いつもは自分だけのためならやらないけれど)。
カフェみたいな木のトレーのうえに、真っ白なお皿を置いて、盛り付けていく。私の目を楽しませるためだけのパセリも添えて。
実食
そして、食べる。「いただきます」とちゃんという。
一口たべて、おいしい。すごく。
(だって、私が好みの味付けにしているので、おいしいに決まっているのだ)
ガツガツがっついて食べたりはせずに、一口ずつ、大切に味わって食べる。
大好きな誰かが、私のために私の好きなおかずを作ってくれたときのように、愛されている実感を味わいながら食べる。
量はいつもより少なめだったのに、ものすごくお腹がいっぱいだ。冗談ではなく、お腹がはち切れそう。
満腹感って、食べる量ではないんだな。
ごちそうさまでした
ものすごい満腹感に包まれつつ、
- 「ごちそうさまでした」
…と、私にいう。
- 「私のために、おいしいご飯を作ってくれて、どうもありがとう」
手を合わせ、自分に頭を下げる。
合わせた両手の温かさと、そろえた親指の温かさが胸の中央に触れ、胸のなかに伝わって、心がじんわりと温かくなっていく。
以上が、今回の私の体験談。実験結果。
良い経験だった。
2役の自分がどちらも体験したい自分だった
最後に付け加えるならば。
今回、私は、以下の2つの人間を1人2役でやった。
- 私のためだけに、ご飯を作ってもらえる自分
- 作ったご飯に、心をこめてお礼を言ってもらえる自分
私のコアに関わっている。
改めて、私はこの2つを、して欲しかったんだな。そして、この2つは、大人になった今ならば、自分で両方やることができる。