私が摂食障害だったとき、「人との比較」がヒドかった。
その“根本的な原因”には自尊心とか自己肯定感とか認知の歪みとか、きっと、いろ〜んな要素が絡んでいるのだろう。
そういうことに関して何度も救いを求め、本を読んで、情報を収集して、“自分のことを直そうと”がんばってきた。クリニックにも通っていたし、そのクリニックで紹介されたカウンセリングも受けた。
ただ、こうして今、摂食障害とは離れた場所まで来てみて、私に“効いた”のは、そういうことではなかった。
根本的に解決するのは時間がかかる
冒頭で書いたような、“根本的なコト”が改善できれば、摂食障害の治療に効用があるのは、きっと紛れもない真実だ。
しかし、私が取り組んできて思うのは、“根本的なコト”を解決するのには、ものすごく長い時間がかかるということ。
年単位で解決できればいいほうで、下手すれば十年単位の時間がかかる(というか一生かかっても解決しないかもしれない)。
そうこうしているうちに、私は毎日過食をして、砂糖や塩を袋食いして、健康を害することへの恐怖を抱えながら自分を痛めつけるように食べ続け、太ることへの恐怖が暴発して排出を試みて…
とにかく、自分を傷つけて傷つけて傷つけて生きていた。
「おくすり」が処方されることもあったけれど、それも残念ながら、私の一番の苦しみ(拒食と過食)には効かなかった。
根本的な解決は置いておいて執着の対象をシフトする
いろいろな理由で自分を認めることができなくて、「人と比較」するクセが抜けなくて、誰よりも痩せていたくて。
そりゃそうだ。だって、「誰よりも痩せているコト」が私の唯一のアイデンティティーで、それを取り上げられることは、かすかに握りしめている人間としての誇りを手放せと言われているのと、同じことなんだから。
私がだんだんと摂食障害から抜けていく過程で役立ったのは、「執着の対象を“極端な痩せ”以外にシフトする」というアプローチだった。
人と比較する自分のまま。自尊心がない自分のまま。自己肯定感が低い自分のまま。
それらを埋めるために、体と心をむしばむ[拒食/過食]を使わない方法へシフトするだけ。
痩せていることより筋肉があることを目指す
具体的にどこへシフトしたのかといえば、私の場合は「筋肉」だと思う。
人と比較して優越感を感じないと、存在していられない自分だからこそ、何かで秀でなければいけない。
それを「痩せ」に求めていたけれど、「筋肉」にシフトする。
根本的な解決(自尊心とか、自己肯定感とか、etc.)ではないけれど、とりあえず心と体にとって、やさしい執着へのシフト。
自分だけが特別ではない、という穏やかな気づき
私は最近まで、自分は人より自尊心が低く、自己肯定感が低く、繊細で、緊張しやすく、感受性があり、自意識過剰で、孤独感が強いと思っていた。
「普通の人よりも自分は…」という意味で、自分のことを特別視していたわけだ。
しかし、ふと思った。
そういう“普通じゃない人”向けの書籍や、ネットの情報が、あふれているのはなぜ?
みんな、孤独なんじゃないの。私が緊張しているように、あなたも緊張していたの…?
これは決して「自分のことだけ特別なんて思い上がるなよ!」という厳しい気づきではなくて、
- あっ。自意識過剰で気にしいで苦しんでいるのは私だけじゃなかったんだ。自分だけが特別で他の人間はまるっと敵のかたまりのように捉えていたけど、敵じゃなかったんだ。かたまりじゃなかったんだ。ひとりひとり、私と似たような人間だったんだ。仲間だったんだ。
…というやさしい気付きだった。
「自分の根本に問題があるから摂食障害が治らない」という前提を修正する
私は「自分の根本に問題があるから摂食障害が治らない」と思っていた。
でも、「みんな根本に問題がある」としたら?根本を修正する必要なんて、そもそもなかったとしたら?
私は途中から、自分の根本を直そうとする努力をやめた気がする。それが、他の記事で書いた「摂食障害に寄り添う気持ち」につながっていったのかも。
そのうち、「摂食障害の根本の心理」は抱えたまま、「たくさん食べる⇔まったく食べない」の過食拒食ループにハマる危険性のない、他の執着へしれっと着地できた感じ。
とりあえず他の依存へシフト
何をもって「病的」というのかは、むずかしい。
食に依存すれば摂食障害だし、買い物に依存すれば買い物依存症、薬物なら薬物依存症、ギャンブルならギャンブル依存症、恋愛なら恋愛依存症、…
その「根本の心理」の矯正に誰もが挑む。王道の正解だと信じて。
私は、根本の心理の矯正に挑んでも、ダメだったときに、よけいズタボロになった。
矯正に挑むのはお休みして、依存先を「より健全なもの」にシフトすることで、救われた面がある。
筋肉は良かった
摂食障害の人の、とりあえずシフトする依存先として「筋肉」はちょうど良かった。
特に現代は「キレイな筋肉」が人から褒められやすい。
私が10代・20代の頃は「ガリガリに棒みたいな脚」は礼賛された。それがほしくて、痩せたいと思った。
今なら「筋肉をつけて人から礼賛される」が成り立つ。
ジムやヨガなどのスタジオに行けば、手脚やおなかを出して鏡の前に立ち、他の人と思う存分に比較して、優越感をくすぐることだって可能。
良い筋肉を作るためには食事と運動が欠かせないから、摂食障害のようにメチャクチャやって、体を痛めつける結果には結びつきにくい。
私が今、人から見て「異常な細さ」を持っていないのに自分を保てているのは、本当の自尊心が育ったというよりも、「筋肉」があるからな気がする。
人よりもキレイな筋肉、人よりもキレイな凹凸、人よりもキレイなライン…
「人よりも…、人よりも…」って、比較ばかりして、結局、何も変わっていないじゃん。
…とは思わなくなった。いいんだ、比較してしまう自分のままで。とりあえず、前よりはずっと生きやすくなったから、これでいい。